安 倍 館
     
 国道4号線を盛岡に向かい、駅方向に向かうために右
折して間もなくの辺りである。交通量も多く、気をつけて
いないと見逃してしまうようなところに次のような標識が
立っている。

 康平5(1062)年、北上の覇者安倍氏が滅亡した
厨川柵跡と伝えられる。安倍貞任をはじめ一族の
勇戦の哀史は今も多くの言い伝えとして残ってい
る。
 一方発掘調査では、この遺跡が中世工藤氏の
居城厨川城跡と確認されている。厨川城は文治
5(1189)年源頼朝の御家人工藤行光が地頭に
任じられて以来、天正20(1592)年の廃城に至る
までの400年間、岩手郡を治める拠点であった。
 今も残る深い堀は工藤氏字時代のものもので、
図のように7区画に分かたれ、中心部は本丸と呼
ばれている。
 この遺跡は、往時の面影を残し、盛岡の中世を
物語る数少ない重要な遺跡である。

 境内で祭りが行われるらしい。のぼりが立てられ、出
店の準備をする人たちの姿が見られた。