沼 の 柵 本 城 址  看板に書かれていたこと 

  平安時代、応徳3年(1086)「沼の柵」合戦、いわゆる「後三年の役」が起きた。
  前九年の没後、奥羽二州(陸奥・出羽)を清原一族が支配しており、真衡の死後、
 陸奥六群を清衡・家衡兄弟が二分していた。
  しかし、土地や人民に対して統制ある支配を行うためには同族的連合の形では
 不可能になり、族長権をめぐって一族に不和が生じて起こった戦いである。

  清衡らは、朝廷から陸奥の守に任ぜられて赴任した源義家(八幡太郎義家)の加
 勢を得て、家衡のこもる沼の柵を攻めたのである。
  水柵(四方を水で守られた柵)といわれた沼の柵は簡単に落城せず、やがて激しい
 風雪の中での戦いになった。

  清衡・義家軍は大雪と寒さ、その上食料の欠乏にあい、馬肉を食って飢えを凌ぎ、
 仮死状態の兵を懐に抱いてぬくもりを与え、蘇生させたりしたが、多くの軍兵を失い
 苦戦した。

  このように自然の要害に守られた沼の柵を攻め落とすことのできなかった清衡・義
 家軍は、いったん陸奥へ引き上げた。

  その後、家衡は叔父武衡の進言により、沼の柵よりも要害堅固の地である金沢の
 柵へ移る。再び戦いが始まり、激しい攻防の後、清衡・義家軍は金沢の柵を攻め落
 とし、後三年の役は終わった。

  清衡は清原氏の勢力をつぎ、藤原氏を名のり中尊寺の金色堂等栄華を極めた平
 泉三代の文化を築くことになる。
 
                                  雄物川町教育委員会
 
 

                    

                ↑  公民館にあった後三年の役の壁画

 沼の柵の隣りにある学校のところに建てられていた900年祭
    顕彰碑?