平安時代、応徳3年(1086)「沼の柵」合戦、いわゆる「後三年の役」が起きた。
清衡らは、朝廷から陸奥の守に任ぜられて赴任した源義家(八幡太郎義家)の加
清衡・義家軍は大雪と寒さ、その上食料の欠乏にあい、馬肉を食って飢えを凌ぎ、
このように自然の要害に守られた沼の柵を攻め落とすことのできなかった清衡・義
その後、家衡は叔父武衡の進言により、沼の柵よりも要害堅固の地である金沢の
清衡は清原氏の勢力をつぎ、藤原氏を名のり中尊寺の金色堂等栄華を極めた平
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↑ 公民館にあった後三年の役の壁画 ← 沼の柵の隣りにある学校のところに建てられていた900年祭
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