鴨立庵・旧島崎藤村邸・新島襄終焉の地

(神奈川・大磯町)

                        
伊東からの帰路、大磯駅に降り立ち、あちこちを散策しました。
写真もたくさん撮ったのですが、整理の段階でて違いにより削除してしまいました。
やむなく、大磯町のHP、パンフレットなどを参考にして作成しました。
      
鴨 立 庵

小雨の中、駅から歩きました。遠くはないですが寒かったです。
入場券を扱っている所で、記入簿に青森と書いたらびっくりされました。
ここに庵が出来たわけや、俳諧道場となったいきさつなどをお伺いすることが出来ました。

大磯の見どころとして、旧島崎藤村邸・新島襄終焉の地などを教えて戴きました。

 
  「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」

 平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸で詠んだ歌です。

 江戸時代、小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌に
 ちなみ、この場所に鴫立沢の標石を建てました。
 そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏)
 をこの地に運び草庵を結んだのが始まりです。
 その後、俳諧師・大淀三千風(おおよどみちかぜ)が入庵。
 京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場となりま
 した。


 
 

 
 
 

旧島崎藤村邸 (パンフレットを参考にしました。)

  
小路に入ったところにあり、少しわかりにくかったです。ようやく見つけて写真を撮っていたら、
中から女の方が現れていろいろ説明して下さいました。
中には入れないのですが、外の戸を開けてしっかり見せて下さいました。
しばし、藤村について語り合い、晩年を偲ぶことができました。
  


  


  
  

  

新島襄終焉の地碑

群馬・安中出身の新島襄の終焉の地が大磯であることを知りびっくりしました。

    
 新島襄は明治22(1889)年11月、病に倒れたのを機大磯で静養し再起を計ることにした。
 海岸に程近い百足屋 ( むかでや ) 旅館の、松林に囲まれた別館の愛松園にて療養。
 明治23年1月20日危篤に。
 妻の新島八重も東海道線に乗って大磯にやってきた。
 「グッドバイ、また会わん」
 襄が八重に送った最後の言葉。1月23日、46歳11ケ月の生涯を閉じた。
 弟子の徳富蘇峰が駆けつけた時は、すでに生死の境をさまよっていたという。
                             (大磯町のHPを参考にしました。)

 国道1号線沿いで、石碑とその周囲がいくらか残るのみでした。
 写真を取ったのですがこれもて違いにより削除。