今年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛(のち如水)を題材にしていますので、
今回は、同じ軍師つながりで、津軽為信の軍師とされる、沼田面松斎(ぬまた
めんしょうさい、生年不詳〜1612)という人物についてご紹介いたします。
面松斎は、上野国(こうずけのくに)沼田郡(群馬県沼田市)の生まれで、
兄の沼田三郎左衛門とともに歌人としても有名な大名細川藤孝(のち幽斎)に
仕えていたといわれます。
しかしその後、彼だけが浪人し、武者修行のため各地を転々します。
そして、1568(永禄11)年、津軽にやって来た彼は、のちに弘前藩祖となる
為信に仕えたといいます。
彼は易学(えきがく、四書五経の一つ『易経』を研究する学問)に通じ、
天文学にも詳しかったことから、軍師として登用されたといいます。
残念ながら、軍師としての活躍はわかりませんが、後世弘前藩によって
編さんされた歴史書「津軽一統志」などには、弘前への築城を勧めるなど、
いくつかのエピソードが記されています。その一つをご紹介します。
1585(天正13)年、為信は小田原(神奈川県小田原市)に本陣を構えている
豊臣秀吉のもとへ参陣しようと船で鰺ヶ沢を出発しました。
しかしその途中で大嵐に遭い、難破寸前になりました。その時、面松斎が、
為信の宝剣を海に投げて海の神である龍神に祈祷するよう進言します。
為信がその通りにしたところ、たちまち風雨が止み、九死に一生を得た、
といいます。
さらに、海に投げた宝剣は、船の碇綱にからまって再び為信の元に戻った
ことから、それにちなんで宝剣には綱丸と名付けられたといいます。
内容の真偽は別にしても、君主為信の窮地を救った家臣として、
面松斎は後世に語り継がれたのです。
2011(平成23)年11月6日、面松斎の400回忌に合わせて、墓所のある弘前市
新町(あらまち)の誓願寺に彼の石像が建立されました。
藩祖為信を支えた軍師として、彼は現在も顕彰されています。
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